それではギャルソンは正確には何を演じ、またなぜそれを演じているのでしょうか?次の一節を見てみましょう。
「彼は演じ、戯れている。しかし、一体何を演じているのか?それを理解するのに、長く彼を観察すべきではない。彼はギャルソンを演じているのだから。ここに私たちを驚かすようなものは何もない。演技とは言ってみれば位置を測定したり調査したりすることなのだから。子どもは自分の体を調べるために体と戯れて、その目録を作成する(理解する)。ギャルソンは自分の状況を実感するために、状況と戯れるのだ。」
サルトルは、ギャルソンはギャルソンであることを演じているのだと言います。ギャルソンはギャルソンとしての振る舞いを大げさに演じているのですが、それは、自分と自分の役割を完璧に同一化することで、自分はギャルソンそのものなのだと自分で思い込もうとしているのです。一方で、ギャルソンではない彼の本当の姿はそこでは抜け落ちてしまっています。私たちの現実の中に思いがけず偶然に立ち現れる彼の存在を、彼は意識することができません。
サルトルは自己意識そのものを一つの演技=ゲーム un jeu として描いているのですが、サルトルによれば、ギャルソンは(つまり私たち)は、意識できない不安定な自分の存在から逃れるために、ある役割の中に自分自身を見出すという演技=ゲームをしているのです。演技から逃れるために演技し、ゲームとしての自己の存在から逃れるためにゲームを行っているとも言えるでしょう。だからこそ、その演技=ゲームを、サルトルは「自己欺瞞 mauvaise foi 」と呼んでいるのです。
とはいえ、サルトルとボーヴォワール自身も、カフェ・ド・フロールで、サルトルとボーヴォワールであることを演じ続けたのでした。それは人間の逃れられない自己意識と言えるでしょうか。
かつてのオーナーは、「サルトルはコーヒー一杯で粘りやがって最悪の客だ」と言っていたそうです。もしかしたらコーヒー一杯で長時間哲学談義や書き物をし続けるサルトルに、ギャルソンが嫌味の一つでも言ったのかもしれませんね。ギャルソンに対して少々意地悪く見える観察は、案外こんなところから来ていたりして。一方、カフェ・ド・フロールは今はちゃっかりサルトルの名声を利用しています。
http://www.cafedeflore.fr/accueil/histoire/1935-1945/
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